第一章 出逢い



 もしもあなたが、生まれてこのかた、ただの一度も野や山を歩いたことがないとお

っしゃるのであれば、僕のこれからの話は退屈の一言に尽きるでしょうね。

 けれどもあなたが、たとえ一度でも、鳥の声に耳を澄まし、谷川のせせらぎを手

のひらにすくい、一輪の名もない野の花に心ひかれたことがおありであれば、僕は

あなたとひとときの幸せを必ず分かち合えると確信します。

 さらにあなたが、一本の釣り糸に寄せる魚の繊細な便りと、さらにさらに、幸運に

してその魚を釣り上げた時の大きな驚きと感動をおもちであれば、もう何も言うこと

などないのです。

 僕は即ペンを置いて、あなたとお茶でも飲みながら、水と空気と魚と、どこにでも

いる人間の話をするのです。

 それからこそっと「一度、僕と川歩きをしませんか。」と言うのです。


                 もうずいぶん昔の話だけれど……


 真夏の昼下がりであるというのに、舟の川の水は氷水のように冷たかった。

 そのどこまでも澄み切った水の中に身を沈めることは、勇気と呼ぶにふさわしいも

のであった。

 「十分も泳げんぞ。」

叔父はそう言った。

 しかし、僕はといえば、唇を真っ青に染めながらも、時の経つのも忘れて水遊び

に興じていた。

 中学二年生の夏の日のことであった。

 地元の子どもに借りた一本ヤスを手に持ち、鼻メガネの水中を顔に押し当てて

瀬に伏せると、底石の隙間に、今まで見たこともない魚がいた。

 身じろぎ一つしないでじっとぼくを見つめている。

 不思議な紋様、鮮やかな朱点。

 未知の生物に突然出くわした時のおそれと不安。

 そして、その一方で、今日の唯一の獲物になるであろうものを見つけた感動に、

胸は大きく高鳴った。

 息苦しさの中で決断したぼくの手の中の一本ヤスは、次の瞬間、はじけるように

前方に飛び出し、見事にその魚の腹を突き抜いていた。

 あの日から二十年余の月日が流れた。

 魚の、もがき逃げようとする震えが、未だにぼくの指先にまざまざと蘇ってきて、せ

つない想いにかられることがある。

 記憶にしっかりと刻み込まれた、赤い朱点をもつ魚とぼくとの交わりは、こんな衝

撃的な出逢いで始まったのだった。

 彼女の名を、「アマゴ」と知ったのは、それからずっと後になってからのことであった。