第十五章 アマゴを餌にして
アマゴを餌にして、誰かと仲良くなろうという何やら魂胆めいた話ではない。
アマゴを餌にして、大物の魚を釣るという正真正銘の話なのだ。
ふと、寺池でのルアー少年のことを思い出していた。(注・三段仕掛けのルアーケース)
思わず口にしかけて、ぐっと飲み込んだ言葉、「ぼく、アマゴって知ってるか。」
まるで、不透明な池に向かって黙々とルアーを投げ込む少年に、コバルト色に輝く淵の底を悠然と泳ぐ魚の話など、いらぬおせっかいだと思ったからであった。
バス釣りは下等、アマゴ釣りは上等という、今にして思えば我田引水、無意識のうちであれ、あまりに勝手な解釈をしていた僕であった。
「魚を釣る」という行為に、下等も上等もない。
それが、どのような場所であろうと、魚が鈎に掛かったその一瞬のときめきは、あらゆる釣りに平等なのだ。
そのことを教えてくれたのが、これからの話である。
渓流にアマゴを求めて入り、渓流仕掛けでバスを釣るなどというとんでもないことを万が一にも予想する僕ではなかった。
池原ダム湖は、ブラックバス釣りで有名な湖水であるが、そこに流れ込む前鬼川もまた、渓流釣り師たちにその名を知られた有名渓流である。
豊富な水量と適度な川の傾斜によって、湖水の切れるところ、すなわちバックウオーターから即、渓流の様相を呈しているというのも美しいが、それより少し上流部で本川が、二、三百メートルはあろうかと思われる断層によって七段に寸断され、見事な滝と渓谷美を形づくっている。
前鬼川という名が示すように、巨大な断層を突き抜けて落下する七重の滝は、見る者に圧倒的な迫力で迫ってくる。
文字通り、前に鬼がそびえ立っているという表現が見事に当てはまる景観なのだ。
この日の釣りは、バックウオーターから、七重の滝の下手までの行程であった。
思いもかけないブラックバスとの出会いはすぐにやってきた。
バックウオーターから百メートルほど上流に巨岩に囲まれた百坪ほどの淵がある。
前方に数メートルの激しい水の落ち込みがあるので、湖水から辿ると最初の魚止めの淵ということになろうか。
たっぷりと水を蓄えたその淵の底には、見たこともない大きなアマゴが潜んでおり、数秒後には、竿をうならせる過激な引き込みが僕をうならせてくれる、そんな甘い期待が胸をときめかせる。
そして、それは現実に来た。(と、思った。)
突然、竿尻にかかる重い衝撃。
ひゅーんと細いテグスが悲鳴を上げる。
しかし、水面に引き抜いた白い魚体は、あこがれの巨大アマゴではなく、りっぱなウグイであった。
胸のときめきは、数十秒であっけなく終わったが、まま、よくあるパターンだと一人照れ笑いをしているうちはよかった。
予期せぬ事実は、一件落着と見えたその瞬間にやってきた。
ふらふらになって、もはや抵抗もなく引きずられ「るままになっていたウグイが、突然、再び強烈な引き込みを開始しはじめたのだ。
しかも、この力は、先程までの比ではない。
一瞬、何が起こったのか理解できず、必死で竿を支えながら、水中を凝視した。
なんと、二尺はあろうかと思えるようなばけものアマゴが、抵抗力の失せたウグイをくわえこんで走っているではないか。
さらに、そのあとを、数尾の黒い影が激しく追っている。
ばけものアマゴ?
ちがう、ブラックバスだ。
ダム湖から遡上したブラックバスが、これより行く手を遮られて大集結をしていたのだ。
ついに呑み込めず、放されて戻ってきた一尺に近いウグイは、白い鱗も剥げ落ちて死に体同然になっていた。
むらむらと、闘争心が沸き起こった。
この細いテグスと渓流竿で、あいつを釣り上げる。
仕掛けはすぐに決まった。
僕のビクの中のアマゴを餌にするのだ。
渓流師のプライドなどすでになかった。
アマゴを餌にしようと決めたその時、僕の中で、すべての釣りは平等になった。
アマゴの口から鈎をエラに通し、体側の皮に引っ掛けておく。
ヤツがアマゴを丸呑みすれば、鈎がはずれて、どこかに引っかかるという寸法だ。
ウグイを丸呑みしようとした相手だ。
「上等」のアマゴなら、よだれを垂らして群がってくるに違いない。
アマゴを餌にするなど、初めてのことであったが、思った通り、餌が水面に落ちるなり数尾の黒い影がわれ先を争って突進を始めた。
竿の穂先が水中に引き込まれんばかりにしなった。
一呼吸おいてきゅっと合わせた。
ヤツはアマゴを呑み込んだ。
鈎が、ヤツのでっかい口のどこかに掛かっていることを信じたかった。
この細いテグスが、あるいは僕の愛用の渓流竿が、またさらに僕の技術がヤツの抵抗に耐えうることが出来るか、こんな楽しい駆け引きを僕は今、目の前で体験させてもらっているのだ。
数度に渡る強烈なやり取りの後、ついにヤツは水面に浮上してきた。
水面に顔を出すや、ヤツはジャンプした。
いわゆる「エラ洗い」というブラバス釣りの醍醐味だ。
それを、二、三度繰り返した。
スレ鈎(もどりのない鈎)仕掛けの緊張感がたまらなく心地よい。
逃げようとする者と、逃がすまいとする者の強烈な意志が、一本の細いテグスを挟んで張りつめている瞬間なのだ。
世界が、僕の中で一点に集中する。
大きな口をぽっかりと開けて、水面を滑るように手元に引きずられてきたヤツを見たとき、僕は僕の勝利を確信した。
鈎は、見事にヤツの上顎に突き刺さっていた。
アマゴ五匹と引き換えに、一尺半はあるブラバスを三匹頂戴した。
悲鳴を上げて闘った愛用のカーボンロッドや細いテグスの強靭さを改めて認識もした。
家に持ち帰ってこいつを食った。
しばらくは、ブラックバス釣りに夢中になるかも知れないな、そんな予感を抱きながら包丁をさばいていた。
見かけに反して、塩焼きもフライも美味であった。
餌にしたアマゴを、胃袋から取り返せば一石二鳥に違いなかった。
しかし、おそるおそる開いた胃袋から出てきたアマゴは、すでに消化が始まっていて、とても食えるようなものではなかった。
アマゴをただの餌にしてしまうあたり、さすがのブラックバスと敬意を表したい。
ブラックバスのプライドは、アマゴの比どころではなかったのだ。