第九章 夢ふたたび

 

 釣り人の自慢話といえば相場が決まっている。大物釣りか、数釣りのどちら

だと思ってよい。何年か渓流に通い詰めているうちには、たいがいの者がそ

れらを経験する。何年も渓流に通っているにもかかわらず、そのどちらの経験

もないという人がいるとすれば、その人はよほどの不運に見舞われていると考

えるほかにない。ただし、これはあくまで自己満足の結果であって、経験の尺

度によって満足の値はどのようにでも変わる。

 小型ばかり釣り上げてきた人が、初めて尺に近い渓流魚を手にした時の感

激とそれにまつわる話は、尺物ばかりを追い求めて事実何度も大物を手にして

きた人の話より挑発的で愉快なのは容易に予想できるという具合にだ。


  釣り人は夢を見る。いや、夢を見たいがために釣り続けるのかも知れない。

日が良くて今日がだめでも、明日は良いにちがいないと夢を見る。何度も

何度も、自分の見る夢に裏切られてもなお。

 夢の中に登場する怪物アマゴの群れ。強烈な引きと闘う孤高の釣り師はもち

ろん自分自身だ。

 夢か、現実か。夢なら醒めるな。誰か見ているか。おお、僕が見ているよ。

の勇姿を僕は見ているよ。


 吉野川の源流部は、まずほとんどを見てきた。地図にある谷という谷をこの目

と足で確かめてきた。足繁く通っていればドラマは向こうからやってくる。ほんとう

夢のような現実にだって出会うこともあるのだ。


 僕の釣り仲間で「おみやげ」と呼ぶ場所がほぼ二年存在した。その日入渓し

た谷で期待した釣果が得られなかった時は、その「おみやげ」に寄ればよかっ

た。

「おみやげ」は天候、時刻に関係なく、必ず数尾以上の良型アマゴを僕たち

提供してくれた。「おみやげ」での話だけでも、とても一時間や二時間では語

尽くせないほどの思い出のある場所なのだ。数釣りはもちろん、怪物アマゴの

在を確証したのもこの場所であったし、釣ることの醍醐味や、釣り続けること

のむなしさを教えてくれたのもこの場所であった。話が抽象的で不可解である

いう諸氏のために、もうしばらくこの「おみやげ」のことを語ろう。


 この秘密の場所を見つけたのは偶然というべきものであった。

 台風の影響で数日間降り続けた強い雨は本流に溢れた。轟音を響かせる

激しい増水に、一度は釣行を思いとどまらせたのだが、夜半には雨もあがり、

夜明けを迎える頃には雲の隙間に星のまたたきを見るのを合図に、矢も楯も

たまらず妻の制止を振り切って家を飛び出していた。

 谷筋の水は引くのが早い。きっと竿を出せるところもあるはずだ。そういう期待

を込めて車を走らせた。

 ところが、である。大量の雨水をくわえ込んだ山は、それを吐き出すのに懸命

になっていた。谷に溢れる水は昼を過ぎてもいっこうに収まらず、谷は相変わら

ず赤茶けた濁流に洗われ続け、たまに竿を出せる場所を見つけても移動がか

なわず、まったく釣りにならなかったのである。悔しい気持ちを紛らわすため、あ

ちらこちらと車を走らせては、時折竿を伸ばし、また、畳むことを繰り返していた。

 その時、ふと、その場所を思いついたのである。


 そこは、吉野川支流の中程にある砂防ダム湖だ。

 ふだんは水深にして最大二メートルもあるだろうか。底も透けて見える小さな

湖なのだが、バックウオーターには砂利がうず高く積もって、やたら広い川原に

っている。

 ふだんは誰も竿を出す場所ではないのだけれどこんな日はどんなだろう。当

然、増水はしているだろうが、あの広いバックウオーター付近の広い砂利地も水

をかぶっているのだろうか。そうだ、堰堤正面から見て右側(支流左岸)に湖に

注ぐ小さな谷があった。支流右岸の林道から堰堤をまたいで左岸の谷との合

流地までは山仕事の人が利用する吊り橋が架かっていたことも思い出した。

そこに行けば、支流の左岸に取り付けるだけでなく、小高く積もった砂利地の

上に降り立てるかも知れない。堰堤の上を越す水量なら、むしろ今日こそ竿を

出すにふさわしい場所になっているかも。よしよし、これは絶好の釣りポイントに

なっている可能性が高いぞ。

 手前勝手な思い込みは、そのほとんどが失望に変わることの方が圧倒的に

多いのだが、この日に限っては、想像が現実のものとなった。いや、想像をはる

かに超えた現実に遭遇したと表現した方がより事実に近い。


 実際の川は予想以上の増水で、ちょっと入渓をためらうくらいの様子であっ

た。広い川原は水の中にあった。いつもは小高い砂利の山さえ水に洗われて

いる。

 まだ濁りの取れない水に膝まで立ち込んだ。水圧で足元の砂利が奪われる。

何度も身体の重心を取り直しながらの釣りが始まった。ちょん掛けにしたミミズ

を餌に、流れる水面めがけてピシャリと打ち込んだ。

 目印が濁り水に吸い込まれようとしたその瞬間、急激な引き込みがあった。

 心に構えが出来ていない矢先のことで、竿を立てる余裕もなくしばらく思うが

ままに走られてしまった。胸の高まりを押さえて抜き上げると、二十五センチを

越えるみごとな幅広アマゴだ。計算してここに来たはずの者が、出会い頭のま

さかの事実にびっくりしてしまったというわけだ。

 今日初めての美しい獲物を腰魚籠に入れ、二投目を放り込む。一秒、二

秒、目印がふっと消える。来た。入れ食いだ。第三投、第四投、水面を餌で

叩きつけるようにして、遅くて三つ数える間にそいつは強烈なアタックを試みてき

た。瞬く間に僕の腰魚籠は良型アマゴで一杯になった。ずっしりと胴に響く重み

に反比例する僕の心の軽やかさをどんなふうに表せばよいのだろう。


 このことがあってしばらくというもの、僕は恋い煩いに冒された喜劇役者よろし

明けても暮れてもその場所を想い続け、そして通い続けた。

 数釣りの経験がないわけではなかった。布バケツ一杯の三桁釣りも何度もあ

る。しかし、それは、解禁時の放流魚相手のことだ。いわば、お祭りのごく撒き

に似て、チャンスは誰にも訪れる。ところが、こいつは違う。相手が、天然魚とい

うばかりではなく、ヒミツの場所を自分だけが独占しているという優越感。なんて

スリリングで痛快なことか。このような体験をしてしまうと、アマゴ釣りも尋常では

なくなってしまう。ただやみくもに魚を釣りたいという欲求が理性を封じ込めてし

まう。

 四季折々に変化する渓谷の美に包まれて歩くことができれば、その日の釣果

に何ら得るものがなくても僕は満足して家路につくことができる、などと昨日の今

日までナチュラリストを気取っていたのは、どこのどいつだったっけ。


 雨が降れば、その堰堤に走る。妻の家計簿のガソリン代が突然膨れ出そう

と、寝室のドアーをそっと開けて密かに出ようとしたその背後から「また行くの。」

とい非難めいた声が聞こえようと、そんなこと知ったことか。雨なら良し。どしゃ

降りならもっと良し。冷蔵庫に隠したミミズを取り出し、カッパ担いで三度笠、

じゃなかった車に乗って、まだ夜の明けやらぬ国道を堰堤目指してぶっ飛ばす。

 東の空がしらじらと明けてくる頃、僕の精神はアマゴ一色に染まっていく。

 妻は再びいびきをかいて深い眠りに沈んでいることだろう。子どもはよだれの

海に溺れていることだろう。ざまあみろ、僕は今、仕掛けをする間ももどかしく

川に向かって歩き出しているのだぞ。恋人よまっていろよ、待って。君の寝覚め

にこのカーボンロッドの一振りを食らえ。


 このヒミツの場所での思い出は尽きない。

 頭上の吊り橋を行く山仕事の足を止め、注目を集めたこともある。釣り上げ

るあまりの激しさに、何を釣っているのかを疑い、わざわざ川原まで降りて来た

男たちに籐魚籠一杯のアマゴを進呈し、驚く彼らの目の前でさらにもう一杯の

アマゴを抜き上げるという芸当をして見せたこともある。

 強い雨で土砂もろとも崩れ落ちた雑木に帰りの林道を塞がれ、山仕事の男

たちに助けてもらったこともあった。

 友人にもこの場所を教えた。「まさか、こんなところで。」と驚く釣り仲間と釣

果を競い合ったこともある。 ある時など、釣友と二人並んで湖水に立ち込ん

で釣っていると、僕の竿に尺に近い大物アマゴが掛かった。「来た。」そう叫ん

で竿を立て、右に左にと走るそいつと格闘していたその時、餌をくわえて走り回

るそいつの後ろを追って、そいつの二倍はあろうかと思えるような黒い影が走っ

来るではないか。

 「何や。」「アマゴや。」「でかい。」

 そいつは僕の足元のほんの二メートル足らずのところまで接近した。友人も

ど肝を抜かれて、思わず僕の股下にハリスを投げ入れる始末。

 「見たか。」「見た。」「すごい奴やった。」

  二人の醜態はしばらく笑いのネタにもなった。


 いつの頃からか、この場所を釣友の間で「おみやげ」と呼ぶようになった。しか

し、それも、回を重ねる度に、捕れる魚の数が少なくなっていくのを認めないわ

けにはいかなくなった。そのうち、朝一番からここにやってくことはなかったが、そ

でもボウズをまぬがれたい時は、帰りに立ち寄ることが続いた。

 そして数年が経った。上流から運ばれ続けた土砂は堰堤の底を埋め、とて

魚の住める状況ではなくなった。水は伏流となり、小さな水たまりを残して、

には乾いた白い砂利の広場だけが残った。


 今はもう誰もそこには行かない。「おみやげ」という秘密めいた響きが僕らの心

をくすぐり続けた言葉さえ、もう忘れ去られようとしている。僕にとって、あれらの

日々はいったい何だったのだろう。決して夢ではない、確かな現実であった。そ

が証拠に、この目にこの腕に、そしてこの心に今もあの時の興奮が強烈に

焼き付いているではないか。


 僕を狂喜させた日々。再び巡り来ることのない日々。しかし、魚たちは、僕

過去の中で元気に泳ぎ回っている。

 水面に躍る銀色の魚体。

 だんだんと夢に近づきつつある思い出の中で。