第八章 夢
先日読んだ本に、渓流魚はどこにいるのかというのがあった。川に決まっているさ、などと硬い頭で答えてはいけない。著者はある暗示を込めてこう述べている。「渓流魚は過去と未来にいる。」
と、ここまで読んだ時、僕は、僕の渓流日記の裏表紙に何気なく書いた落書きを思い出して、ひとり苦笑してしまった。僕のノートの走り書きが、彼の著者の言葉にあまりに似ていたからである。
「僕らの良い日は昨日と明日」
そのココロや如何に。
昨今、いろんな事情で谷荒れが進み、谷に入りさえすれば魚が手に入るという時代ではなくなった。腕におぼえのある釣り師は必ず言う。「むかしは、アマゴなんてにぎりめしの米のつぶでも釣れるくらい、わんさかおったもんやけどなあ。」そのとおり、確かにアマゴは過去にはいたのだ。
しかし、と、カーボンロッドの世代も負けてはいない。「いつか必ず夢見た釣りをしてみせる。」やはり、アマゴは未来にもいるのだ。
アマゴは現在を泳がず、過去と未来を行ったり来たりしている。現実だけがすべてであれば、僕らの釣りも一度で終わる。現在はすぐ過去になり、過去は物語になる。物語は夢を生み、新たな未来を予感させる。僕らは渓流にアマゴを追い求めながら、実は夢を見続けているのかもしれない。
見果てぬ夢、それは時に二尺の怪物アマゴであったり、三桁四桁の超数釣りであったりする。
願うこと、考えることは誰にもじゃまされない。川の流れがとどまることを知らないように、現実はすぐ過去になる。そして未来はすぐにやってくる。釣り人は渓流魚をどこで釣り上げるのか。そこで彼の筆者は、過去と未来だと言った。そしてまた僕も言う。
「僕らの良い日は、昨日と明日(きのうとあした)」なのだと。
世の釣り人に交じって僕もまた、過去と未来に緊張と興奮の細い糸を垂れ続けているのだ。