第七章 赤ふんどしの詩
昭和三十一年夏。
五條市がまだ、宇智郡と呼ばれていた頃のことである。
母親が、幼い僕を目の前に立たせて、繰り返し何度も住所を復唱させていたことがあった。迷子になった時の用心というわけだ。
水泳王国「五條」の名が一斉を風靡した頃で、夏ともなると、町の中央を流れる吉野川(紀ノ川)には、いたるところ日焼けした親ガッパ、子ガッパが群れていた。男どもは、大人も子どもも赤ふんどしをまとっていた。
折しも、当時中学生であった従兄弟たちに連れられて川に出た僕は、川原で砂遊びなどをしているうちに保護観察者である彼らを見失い(というよりは、子守の役を放棄して向こう岸まで泳いで行った彼らにこそ責任はあるのだが)、押し寄せる不安と寂しさで半ばベソをかいてしまった。そんな僕をなだめながら、家まで連れて帰ってくれた人がいる。「ぼくのおうちはどこ。」と聞かれて、「奈良県五條市宇智郡○○町××番地と大きな声で言ったように覚えている。迷子になった時の用心にと、繰り返し教え続けた母親の言葉を、ここぞとばかりなぞらえて言った僕であった。僕を家に送り届けたその人の顔はおろか、風体もまったく記憶にないのだが。「しっかりしたお子さんですね。」と誉められ、妙な気持ちだったと、後に母親が述懐している。それもそのはず、僕が迷子になった問題の川原まで、家からはものの五百メートルも離れてはいなかったからである。
僕が通った小学校は、伝統的な赤フン校であった。そのうちに学校にもプールができ、夏休みともなれば、一時間も前からプールの金網の外に並ぶ毎日であったが、家を出て再び帰ってくる間は、素肌には赤フンの他にタオルひとつ身に着けることはなかった。足のサンダルだけが例外といえば例外になるのだが、それも上天気の日にはいつも手の中にあった。その頃敷かれたばかりのアスファルトの道が日に焼けて熱く、それを素足で踏みながら歩くのは快感だった。まちなかを赤フン一丁で歩く子どもの姿はわが町ではごく自然な夏の風物詩であった。ひと泳ぎして家に着く頃には、赤フンはすっかり乾ききっていた。腰に付いたT型の白い跡が目立たなくなるのは、翌年の夏が始まる少し前であった。
なぜ赤フンをするのかと先生に尋ねたことがある。先生や大人たちの答えは決まっていた。
理由の一、おぼれた子どもを救う時、ふんどしの結びこぶを掴むことができる。理由の二、それをひもとけば、命綱になる。そして理由の三、サメやフカは赤い色が嫌いで、長く伸びるふんどしに警戒して近寄ってこない。賢明なる諸氏は、この話の矛盾にすでに気づかれただろう。幼い頃に受ける教育がどれほど大切か、僕は世の大人たちに問い返したい。川にサメやフカがいるのか。僕は、この疑問にずいぶん悩まされた。未だにウナギなどのように、サメやフカの幼魚も川に住んでいるのではないかと、つい口にしそうになる位だから。幼心に受け止めた話は、強烈に焼き付く。(うまくやられたな)と気がついた時は、すでに中学生。時も赤フンから水パンの時代へと移り変わろうとしていた。それでも、水泳パンツの下には、いつも赤いふんどしをまとっていた。赤フンの誇りが憧れの水パンと同居していたのである。
川原には、赤フンがよく似合った。大人も子どもも、みんながふんどしで泳いだ。ふんどしは、カエル泳ぎとペアだった。横流れの川を横断するために必ず覚えなければならない泳法だった。水に潜ると、ずっと向こう岸まで透けて見えそうだった。オイカワだろうか、アユだろうか、手の届きそうなところを勢いよく横切っては、また舞い戻る。このままずっとこの水色の世界にいられたら・・・そう思っては、顔を真っ赤にして口をとんがらせ、あえぎながら水面に顔を持ち上げた。
昭和三十七、八年頃から川砂利採取が激しくなった。併せて家畜の排尿、下水の垂れ流し等で水中の大腸菌や汚濁物質が基準量を超えた。当然にして、川での遊泳は禁止になった。そしてある日、吉野川をまたぐ町の主要な橋の橋桁が傾いた。川砂利が少なくなったところに、水流の変化によって橋桁の足元の土砂が一層すくわれてしまったのである。力のひずみが頂点に達していた時、たまたま一台の大型ダンプが走り抜けた。その直後、橋は真ん中からVの字に折れ曲がったのである。
修復工事は数ヶ月に渡った。橋そのものを補強すると同時に、大量のコンクリートバラストが橋の足元に沈められた。コンクリートバラストは、年々その数を増し、かつて魚が群れをなした橋の下は不思議な幾何形モザイクの広場になった。水の流れは一度に怠慢になり、橋から上流には流れのない川が出現した。空の雲が、油を引いたような水面を滑る。かつての命みなぎる川は今、静かに物音ひとつ立てることなく、流れるともなく流れている。橋の上を走る自動車の騒音と排気ガスが、白々しく空に舞い上がる。
長い長い話をしてあげようか。(うん、して、して。)
空から長い長いふんどしが落ちてきたんだとさ。
あの時代、僕らは大人たちからこんなふうにからかわれた。
軽妙な笑い話も、ふんどしすら知らない今のこどもたちには、笑おうにも笑えない話になってしまったのである。