第五章 放流記

 

 あまごを食べたければ時期を見て街のスーパーに行けばよい。

 最近は、流通の発達に合わせて養殖も盛んになり、これまで、ごく一部の人間の口にしか入ら

なかった自然の幸が、簡単に貨幣と交換できるようになった。

 あわせて、放流釣り場の登場で、釣り妙味をも苦労なく手に入れられるようになった。

 そのほとんどは、釣り堀のように谷川を石やコンクリートで細かく区切り、そこにキロ幾らのお金を

支払って養殖アマゴを入れてもらう仕組みになっている。

 僕も禁漁期に、放流釣り場に走ることがある。

 そこでの釣りは、いわゆる渓流釣りとはいささか趣を異にする。

 にぎやかなピクニック風の家族がいれば、のんびりと竿を突き出し、時の過ぎるのを楽しんでいる

人もいる。

 しかし、一番違うのは魚である。

 姿形は確かにアマゴであるのだが、本来の野生を失っているため、人の姿を見ても何食わぬ顔

で悠然と泳ぎ回っている。

 冬場などは、特に流のないところに群れるため、鼻先に餌を突きつけて、さあ食えとばかりに釣り

上げるのである。夜店のウナギ釣りと大して変わらない。

 お金を払って魚を買うという思いがあるから、これはこれでゲームとしてはけっこうおもしろいのだけ

れど。

 ある時、初老の釣り師がやってきた。

 その本格的な出で立ちを見る限り、これは腕に覚えのある人

だろうと誰もが思うに違いない、そんな雰囲気のある人だった。

 竿を伸ばし、釣り支度を始めていると、釣り場の兄ちゃんがバ

ケツ一杯のアマゴを持ってきた。

 そして、どの客にもそうするように目前にアマゴを放流しようとし

た。

 その時、初老の釣り師は、今まさに放流しようとする兄ちゃんに、

何やらぼそぼそと話しかけた。

 一、二分のやりとりがあって、兄ちゃんはバケツを逆さにして放流を始めた。

 だが、その放流は、水の中に行われたのではなかった。

 次の瞬間、初老の釣り師の魚籠は、きっちり一キログラムのアマゴで一杯になった。

 つまり、放流は、彼の魚籠の中に行われたというわけである。

 「釣り師」は、それからおもむろに糸を垂れ、すれた残りアマゴを狙った。

 もしも、すれアマゴが、彼の竿さばきによって、目の前の水中から次々に抜き上げられたなら、僕

はふたたび驚きの表情で彼の一挙一動を見守ったに違いない。

 しかし、その後、彼の釣り鉤には一匹のアマゴも掛かった様子はなかった。

 彼の今夜の食卓には、釣らずに釣れたアマゴがうまそうに並んだことだろうと思う。

 釣り腕の自慢話に花が咲いたかどうかまでは、僕の知るところではないが。