第三章 再会
車はここまで。
身支度をして歩こう。
谷筋を走る風がひんやりとほほをかすめて心地よい。
段差のある流程。
ほとばしる水しぶき。
河の命の源は近い。
左右の岩肌から湧き出る白い糸が、もつれ合い、重なり合って本筋に合流する。
アマゴとの再会のひととき。
何度やって来ても、はやる心を抑えられない。
次第に足が速くなる。
渓流釣り師の中には、登山家顔負けのような人たちがいる。
岸壁のそそり立つ谷沢に水しぶきを浴び、あるいは冷水に身体を浮かべながら遡上する。
ハーケンを打ち込み、ザイルをたぐって大岩をよじ登る様は見事と言うほかはない。
ある日のこと。
源流部で釣り糸を垂れていた僕の側から、ヘルメット姿の二人のパーティがぬっと顔を突き出した。
突然の出現者たちは僕に軽く会釈しながら、次の瞬間にはもうすでに上方の大岩に組み付き、
あっという間に姿を消した。
水面下の獲物だけに全集中を傾けている最中に、突然予期しない何者かに出くわすということは
、それが動物であれ、人間であれ、これほどびっくりすることはないのだが、心臓の鼓動が収まらな
いうちに岩の向こうに消えた彼らの腰周りには、およそ一般的な釣り師が持たない小道具が整然
と装備されていた。
まるで風のように通り過ぎた彼らのことが、その後も気になって仕方がなかった。
この先、彼らはどこまで行ったのだろう。
僕には見ることのできない風景を、彼らはこんなの何でもないというふうに見ているのではないか。
さらに、僕の想像の外にある世界に腰掛けて、一服の煙草を青い空に向けてふかしているので
はないか。
またさらに、こんなところで竿を振っていた僕のことを持ち出して、あんなところにも魚はいるのだろ
うかなどと噂しているのではないか。
それならまだしも、僕の存在などは彼らにとっては、立木同様、無視すべきものであったのかもし
れないのだ。
様々な想いが次から次へと湧き起こっては消え、消えては起こり、それまでの充足感が急速にし
ぼんでいくのを認めないわけにはいかなかった。
目の前の獲物を釣り上げることだけに夢中になっている僕があまりにもつまらない人間であるよう
に思えてきたからである。
おそらく、僕が釣り上がった谷筋に限れば、彼らは竿をザックから出すことはなかったのであろう。
いや、はたして彼らのザックの中に竿が入っていたかのかどうかも分からない。
谷を遡上するのは何も釣り人だけとは限らないのだから。
しかし、しかしだ。
仮にも、あのザックの中に忍ばせたカーボンロッドが、するすると岩陰から伸びる時、それが僕のも
のより安物であろうとなかろうと、巨大な岩に守られた静寂の世界でうとうとと夢見ていた大型アマ
ゴの眠りを覚ますことには間違いはないのだ。
渓流人を自認する者なら一度は見たい桃源郷。
そこへ行く切符の代価は、体力と技術、好奇心と強い精神力で支払うことになっている。
魚を求めてやみくもに遡上し、帰りになって、よくもまあこんなところを登ってきたもんだと怯えなが
ら妙に感心したり、渓の美しさに誘われるままについつい度を超して大岩をよじ登ってきたところが
魚止めの滝壺で、これより先行くもならず去るも惜しく、呆然と立ちすくんでしまうのがいいところの
僕であるから、桃源郷行きの切符などとても手に入る術はない。
せめて、渓流釣りの素晴らしさだけは、誰にも負けず劣らず味わっている僕なのだと言い切ること
で、ヘルメット姿の彼らをさわやかに見送るしかない。
「気をつけていってらっしゃい。登りすぎて天まで行かぬようにね。」
さて、準備は整った。川下で採取したヒラタカゲロウの幼虫を釣り鉤に刺し、あの岩の向こう、水
のよじれているところに投げ込もう。
目印が走る。
竿先がしなる。
銀鱗が光る。