第十四章 会いたくない人
渓流で会う人の話をしよう。
沢歩きの登山家、バードウオッチングのハイカー、山菜採りのおばさん、道路パトロール
中の土木課職員、山仕事の人たち、道路工事の人夫さん、猟師、石どろぼう、そして
僕と同じ釣り人、などなど。
僕はたいがい一人で入渓することが多いから、その折々に人に出会うのも決して悪い
ものではない。
が、そうは素直に思えない時もけっこうあるものなのだ。
まずは、釣り人。
座敷の上では気のおけない仲間になれる者同士であっても、そこが川であるという条件
において、彼らは僕にとって「天敵」以外の何者でもない。
僕がそう思うということは、相手も僕をそう見ているということだ。
おてんとうさまが頭のてっぺんに昇ったあたりで彼らに出会うのはまだよい。
「どうです、釣れましたか。」と通り一辺のあいさつを交わして、うまく話がはずめば互いの
情報の交換などで楽しめることもある。
しかし、これが早朝、しかも入渓直後だとがぜん違ってくる。
互いに疑い深くなっているので、語りかける言葉にも帰ってくる言葉にもほとんど真実み
などなく、へたな三味線の張り合いになってしまうのがオチなのだ。
谷歩きを始めて、そろそろよいポイントに近づいてきたという時になって、あろうことか目の
前の岩陰に竿が揺れるのを認めた時などはもう最低の思いだ。
信じていた恋人を突然略奪された心境。天国経由地獄行きの恨みがこみ上げる。
とりあえず、あたりさわりのない会話に努めたところで、先着者の優越感と後着者の劣
等感では初めから勝負にならない。
格好だけはいさぎよく竿を畳み込むものの、敗北者は、「じゃあ、他の谷を歩いてみます
よ。」と強がりを言うのが精一杯の抵抗なのだ。
山仕事の人々に会うのも好まない。
山の人間に会うのが嫌なのではない。
仕事の場面に出くわすことが嫌なのだ。
こちらは天下晴れての日曜釣りでも、天気がよければ山の仕事は続く。
一週間の仕事から解放され、ひとときの自由を味わっている時ぐらい賃労働の匂いとは
無縁でありたいのだ。
谷越えの険しい山道を歩いている時など、身体の三倍はあるかのような杉の苗を背中に
担いで歩く女性と出会うことがある。
道をゆずり際に「すいませんねえ。」などと言われると、かえって言葉に窮してしまう。
「重たいですか。」とも言えず(あたりまえだ)、「この先は釣れますか。」とも聞けず(知っ
たことか)、せいぜい「こんにちは、たいへんですね。」といらぬ愛想をつくのがいいところだ
ろう。
植林や、伐採、あるいは道づくりをしている人々の間を、腰に魚籠、竿を担いで歩く自
分の姿ほど嫌なものはない。
ましてや、山道の脇にどっかりと腰を落として弁当などを食べている人たちの前を歩く時
のなんとも表しがたい気分といったらない。
ウエットブーツのキュッキュッと擦れる音が、黙々と弁当を食らっている人の前を自己主
張しながら通らなければならない時などは、何にも例えようのないほどブルーな気分に
なる。
透明人間になったつもりで通りすぎた後も、彼らの視線が背中に突き刺さってくるよう
でたまらない。
「にいちゃん、どうやった。」などと気さくに声を掛けられると一挙に救われてしまうのだ
が、まるで招かざる侵入者を見る目つきで黙って観察されるのは耐え難いことだ。
薄暗い一本道で獲物を狙う猟犬と遭遇するのは本当に恐くて嫌だ。
石どろぼうになど出会ったときにはもう最悪どころではない。
村の駐在なんぞ手玉にとってしまう戦歴の持ち主である彼らを相手に、道義的忠告な
ど何の役にも立たぬ。
ある時など、現場を尻目に歩いていると、「にいちゃん、そんなん、コレしたら一発やで。」
と、両の手の人差し指を下に向けてのアドバイスを頂戴した。
バッテリーを使えと言っているのだ。
夢も希望も一挙に失せた。
内心、むらむらと来ながら愛想笑いをする僕にも嫌気がさした。むっとした表情が作った
笑顔に出たのかどうか、「一杯飲っていかへんか。」と一升瓶を差し出してくる始末。
そんなもの飲めるか、との言葉を呑み込んで、軽く顔の前で手を振って分かれようとする
と、「警察に言わんといてや。」と来た。
何ということだ。
男を警察に売った後、アマゴを抜き去る自分の姿をしっかり見せつけられてしまったの
だ。
哀しいかなアマゴたちよ。
おまえたちの住み処は、こんなしょうもない男たちの日銭になるのだな。
そして家を追われたおまえたちを狙う俺たちは、おまえたちからすれば最も最低な、会
いたくない人間であるのだろうな。