第十二章 野糞先生

 

 一冊の古びた文庫本が、僕の手元にある。

 山村暮鳥詩集、昭和二十七年初版の新潮文庫である。

 図書館用として製本されたこの本は、陽に焼けて赤茶色く変色こそすれ、装丁は、分厚

い台紙に木綿の布張りが施されて単に文庫本と呼び捨ててはおけないような存在感があ

る。

 昭和四十年の冬、当時中学校一年生で図書委員をしていた僕は、書庫の整理をして

いてこの本に遭遇した。

 すでに廃棄本として扱われていたこの詩集は、たしかうす暗い倉庫の片隅で他の古書に

交じって眠るように積まれていた。

 僕が欲しいと言ったのか、先生があげると言ったのか、そこの記憶は定かではないが、

以来その詩集は僕の家を寝ぐらにし、僕という人間の精神を少なからず支配することにな

ったことだけは確かである。

 指であたりをつけると、本はすっと二つに分かれて見慣れた活字が目に飛び込んでくる。


    野糞先生


かうもりが一本

地べたにつき刺されて

たつている

だあれもいない

どこかで

雲雀が鳴いている


ほんとにだあれもいないのか

首を回してみると

いた、いた

いいところをみつけたもんだな

すぐ土手下の

あの新緑の

こんもりとした

灌木のかげだよ

ぐるりと尻をまくって

しゃがんで

こつちをみている


 詩に興味を抱き始めたのはいつ頃のことだったろう。

 いろんな詩を読みその都度心を震わせもしてきたが、愛唱の詩を語るとなると、これがす

ぐに出てこない。

 ええっと、あの詩人のね、と言いかけては後が続かない自分の記憶力の貧しさを認める

時ほど悔しいことはない。

 女の前で、何気なく一編の詩を口ずさむようなことをしてみたいとの思いは、ついに叶え

られぬ永遠の憧れになってしまった。

 しかし、どういうわけか、この詩だけは別格なのだ。

 詩の活字そのものが鮮明な画像記録として、僕の心のひだの一点に焼き付いてしまっ

ているのだ。

 一字一句誤ることなく諳んじて言える唯一の詩が、この「野糞先生」なのである。

 ただ、女の前でロマンスを語る際の知的アイテムとしてふさわしいかどうかはやってみれ

ばすぐに判明する。

 青い空、そよぐ風、波うつ草の優しさを全身に感じて時を見つめている男と女。

 今、まさに、女は男の一言を待っている。

 男はここで、わが心の想いを感動の名詩に寄せてそっと口ずさみたいと考える。

 あの、何とか言う詩人の、例の白い表紙の、書架の三段目の右の方にあったあの詩集

の、君が好きだと風がささやいたとかの一節のあった、あの詩の、そう、たしか最初は、え

えっと。

 あせればあせるほどに、名詩は記憶の彼方に遠ざかって行く。

 女が僕見つめ、僕の言葉を待っている。

 いまだ、詩だ。

 詩を口ずさむのだ。

 「・・・・・ぐるりと尻をまくって・・・・・しゃがんでこっちをみている。」

 (し、しまったあ。)

 女の目に驚きと軽蔑の色が現れ、次第にそれは憐れみを示す色に変化する。

 すくっと立ち上がった女は、わざと目線を遠くの山の稜線に向けて、小声でぶつぶつと何

やら言い捨てて僕の前から去って行く。



 やはり、この詩では愛など語れそうもない。

 しかし、こんなにも強く僕の心を捉えて話さないこの詩のたましいとは何だろう。

 かうもり(傘)、地べた、雲雀、土手、そのすべてが遠い記憶の風景になりつつある。

 そうなのだ。かうもりを立てる地べたがどこにある。

 土手を滑って遊んだ日々も、雲雀の巣を見つけた時の秘密めいた感動も、今では夢の

ような世界の話になってしまった。

 コンクリートジャングルに吹く風は、人の心をも乾燥させてしまった。

 「ぐるりとまっくた尻」に優しい森の風は、ボタンひとつの温風に変わってしまった。

 唐突な話になるが、最近、自ら命を断つ少年少女が激増している。

 哀しいニュースを耳にする度に、僕はふと思うことに行き当たるのだ。

 彼らは「野糞」を知らない子どもたちの代表ではないか、と。

 彼らの人生の中に、「野糞」の経験があれば、彼らの不幸は避けられたに違いないと思

えてならないのだ。

 草むらにしゃがむ時、

 林の中にたたずむ時、

 川のせせらぎをまたぐ時、

 その時その時の自然に包まれて放便する爽快な感動は、僕は今生きているんだぞとい

うことを実感させるに余りある。

 難しい理屈や言葉は要らない。

 生まれたての排泄物に群がる蝿ども。

 その養分を吸収する土の中の虫けらども。

 その虫けらを捕食する動物ども。

 生きるということの大きな何かを「野糞」は無言にして確実に教えてくれた。

 「野糞」の情景を知らない子どもたちに「野糞」の話をしてみたところで、それは野蛮で

破廉恥きわまりない行為としか映らないに違いない。

 子どもたちを責めるわけにはいかない。

 「土手の下のこんもりとした灌木」を未来の子どもたちに残してやれなかった大人たちこ

そ責められるべきなのだ。

 「百人に聞きました」とか言うクイズ番組があった。

 今年、成人を迎えた男女にぜひとも聞いてもらいたいことがある。

 「あなたは、野糞を知っていますか。その経験がありますか。」

 そしてたやすく予想されるその貧弱な回答結果を、世の政治家先生や夢のない偏差

値主義の教育者に、そして知ったかぶりのマスコミコメンテーターたちの胸に、厳しく突き

つけてほしいのだ。


 成人式だってさ。

 竿持って川へ行くんだってさ。

 釣った魚を焼いて食べるんだってさ。

 ビールで乾杯して歌うんだってさ。

 野原でダンスなど踊るんだってさ。

 おかしいだろうね。

 楽しいだろうね。

 今年のゲストは素晴らしい人だって聞いたよ。

 何か大事なことを教えてくれるんだってさ。

 その人、たしか、「ノグソセンセー」って言ってたっけ。


  (続く)