第十一章 ジンクス

 

 神の存在を信じているわけではない。

ましてや迷信の類などは一笑に付してきた。

 ところが一つのことにこだわって経験を積み重ねていくと、その時々の情景が

ちょっとした個人的な思いに重なってイメージされることがある。そのイメージ

が、結果に対して高い確率で反映されるとき、まるでそこに何らかの法則が作

用しているかのような思いに囚われる。

 世に「ジンクス」と呼ばれるものの正体は、このように得体のない個人的呪縛

のシロモノなのだ。と、いかにも論説風に話を進め始めているのだが、実は僕に

もジンクスめいたものがある。

 いつの頃からそんな思い込みができたのだろう。

「最初に釣り上げた一匹は、それが満足のいく型でない限り必ずリリースをし

なければならない。」というものだ。

どういうわけか、最初の小型を魚籠に入れた日は、あとが続かないか、終日

良型には巡り会えない。ところが、別れがたい最初の一匹をリリースしてしまう

と、これがまたどういうわけか、その日は必ず良型に巡り会えるのである。

その確率の高さに目覚めた僕は、いつの間にかこれを、自分の釣りスタイルへ

の不可侵条約に定めてしまったのだった。

 道徳心の高い諸氏は、自然保護のためのルールを想起されて、いかにも

当然というふうに頷かれるのだろうけれど、僕の場合は、より大漁を欲するため

の手段に過ぎないという、損得勘定まるだしのリリーススタイルなのだ。

 さて、その日の釣行も、まさにジンクス通りの幕開けであった。

第一投からの魚信。すかさず抜き上げたアマゴはやや小さめであったが、谷の

豊富な餌を食して色鮮やかに輝いていた。本来なら、何のためらいもなく魚

籠に納まるサイズなのだが、例のジンクスがそうはさせない。惜しむ心を次への

期待に繋いで、そっとリリース。「たのんまっせ、神さん。」と、俄仕立ての信心は

物欲まるだしだ。そしてこの日も「ジンクスは生きていた」かのようにみえた。

 釣れるわ、釣れるわ、ぽんぽんと手に飛び込んでくるアマゴ。しかし、そのいず

れもが、魚籠に入れるには、後ろめたい思いがするサイズばかりなのだ。

釣っては水に帰し、帰してはまた釣るということが続いた。ところが、時の経過

とともに、型は反比例して小さくなるばかり。当然にして、未だに僕の魚籠の中

には一匹のアマゴも横たわっていないのだ。

 固くジンクスを守り通してきた僕であるのだが、すでに太陽は頭上近くにまで

上り、まぶしく川面を照らしている。

 誰が見ているわけでもない。誰と約束したわけでもない。妙なジンクスに囚

われて悶々としている自分がだんだんばからしく思えてきた。こんなことになるな

ら、初めから全部捕っておけばよかった。数にすると三十や四十は捕っている

はずだ。何が大物狙いだ。何がジンクスか。まだ一匹すら得ていない僕なの

だ。こうなったら、すべて魚籠に納めてやる。今日は数釣りに変更だ。小さきも

の捕るべからずのマイ条約は、たった今をもって一方的に破棄することに決定

だ。塩焼きから唐揚げへの転向はそうして始まった。


 けっこう落差の激しい流程の中の滝壺であった。

 眼下の落ち込みを覗きながら、岩の上を徒渉していた。この岩はすべるぞ、

そう考えながらわざわざ片足を差し出し、とんとんと調子をみたところで滑った。

 瞬間、天地が逆さまになった。頭を真下にして背中で岩肌を撫でるように

落下した。ひと呼吸する間すらなかった。

 しまったと思ったときには、すでに身体は水に叩きつけられていた。白い気泡

が身体の周りで激しく沸き立っていた。直下に突き刺すように落ちた身体は、

水中でみごとなとんぼ返りさえうってみせた。


 意識はあった。大小の滝と淵の連続する落差の激しい渓相を遡上してきた

という記憶が、身体を無意識のうちに上手に向かわせた。後ろにだけは流され

まいとする一瞬の決意だけがあった。

 水流に逆らい両の足で水を蹴り続け、やっとの思いで岩の隙間に指を掛け

た。後ろを振り返る余裕もなかった もし、背中の方向への先入観的恐怖が

なければ、もっと楽に水から脱出できていただろう。つまり、水流に逆らわず、

自然に下手に流されればよかったのだ。落ち込みの下手は、たいがいが浅く

開けている。この場所も例外ではなかった。ただし、そのことを確認したのは、

必死の思いで地上に這い上がってからのことであったが。


 真上から落ちてくる水の塊が顔面にはじけていた。

 満身の力を込めて岩を引き寄せた。思うように身体が持ち上がらない理由

はすぐにわかった。

 ウエットブーツの中に入り込んだ水は、想像以上に重いということを、この時

僕は初めて体験した。

 それでも何とか自分の身体を陸に横たえ、大きく深呼吸をしながら、滑った

岩を見上げた。 水面までの間に、飛び出している岩があった。背中のリュッ

クがクッションの役割を果たしていなければ、僕の頭は確実に割れていたに違

いなかった。正直言って神に感謝した。

 僕の神は何と都合良くできているのだろう。魚をくれたり、命を助けたもうたり。

 さらに大きく息を吐いて気がついた。

 手にしていた竿がない。帽子もない。それだけではない。さきほどからどうも辺

りが霞んで見えると思っていたのだが、大切な眼鏡が無くなっているのだ。

 身に着けているものをすべて脱ぎ、岩の上に並べながら、かすりきず一つ無い

身体を確かめて妙に感心していたのだが、現金な神はただで命を救うことはし

なかったとみえる。

 ところが、である。不自由な視界で帰り支度をしながら、魚籠がやけに軽い

ことに気がついたのだ。中を覗き込んで驚いた。魚が、一匹もいないのだ。

 ジンクスを一方的破棄してから、事故まで一時間余り。小型ばかりをそれで

も十五、六匹は釣ってきた。それが一匹もいないのである。水の中でとんぼ返

りを打ち、もがいている間に、僕の竿や帽子や眼鏡同様、腰魚籠の中のアマ

ゴまでが水に流されてしまったようなのだ。ジンクスは、生きていた。

 結果、見事なボーズである。それにしても、まるで昔話にでもなりそうな結末

ではないか。


 むかしむかし、あるところに一人の釣り師がおりました。ある日のこと、釣り師

は谷の掟である「小魚を釣ってはならない」という神様との約束を破ったがため

に深い水に落ち、やっとのことで一命をとりとめたものの、釣り上げた魚はもちろ

ん釣り師としての誇りさえ失って、それ以来、男は二度と竿を持つことはなかっ

たということでした。その時釣られた魚たちは今も元気に深い淵の底で泳ぎ回

っているというお話です。


 ただ一つ違うことがある。

 男は、その後も相変わらず谷通いを続けている。時に神に感謝し、時に神に

悪態をついて、勝手気ままに谷間を彷徨っている。

 ただ、再びあの谷に近寄ろうとはしなかったということを除いては。