上北山村と下北山村の村界にある。その名は一度聞くと忘れない響きがある。前の鬼と書いてゼンキと読む。谷の入り口には大きな看板があって、名勝・不動七重の滝とある。林道を車で登ること約20分。突然林道の右手にざっくりとV字に開けた峡谷が広がる。その視界の前方に雄大な滝が見える。肉眼でもしっかりと見えるが双眼鏡などあるとその様子が手に取るようにわかる。太い水の固まりが、谷の断層から段々に落ちては砕け、また落ちては砕けしている。その迫力は言葉では伝えられない。道は決してよいとは言えないが、普通車で登れるので、この近くまで来た人はぜひ見て欲しい。滝の直下から数百メートル下流は開けた瀬が続く。ずいぶん下の方におだやかに流れる川がある。降りたくなる。細く急な山道を下ると、美しい河原に出る。しかし、上から見るのと河原に降りて見るのとではまったく景観が異なる。上からは小さく見えていた岩も家一軒ほどもある。滝の直下に入るともうもうとした水けむり。夏でもクーラーの中にいるような感じ。なんとも青く透き通った水がどうどうと流れている。水がしたたる大岩をよじ登り、さらに滝壺に近づいていく。横滑りに激しくよじれ流れる白く泡だった水。めまいがするほどの勢いだ。僕にはこの川でとてもユニークな経験をした記憶がある。
池原ダムにそそぐこの川は、バックウオーター(ダム湖と川の合流付近のこと)が大きな岩で囲まれたプールになっている。あるとき、大物はいないかと、そっと近づいてのぞきこむと、いるわいるわ、一尺を越える黒い影が群をなして青く深い水の中を行き来しているではないか。よしとばかり、竿を出し、岩陰から大ミミズを針に掛け、そら食えとばかり放り込んだ。瞬間ぐいっと重い手応え。やった。今日はすごい日になるぞ、気持ちは突如ピーク。走る魚影をぐいっと引き抜くと・・・ん、なーんだ、それはただの20センチばかりの小型のウグイだった。ウグイかあ、夏のウグイは臭いがキツイので、手に取るのを嫌って勝手に針からはずれてくれないかと、しばらく水に遊ばせていた。と、その時、思いがけない衝撃。ふらふらと泳いでいたウグイが猛然と泳ぎだしたのである。竿先がキュイーンと悲鳴をあげてしなる。まさか、思ってその動きを確かめると走っているのは40センチはある黒い魚体。その魚体の後ろをさらに数匹の黒い魚体が激しく追いかける。おばけあまごだあ、そう思った。竿はいまにも折れんばかり。仕掛けは大型あまごを想定して0.8号のミチイトと0.6号のやや太めのハリスに替えていた(釣りの知らない人に・・・太めといっても渓流糸はごく細い)のだが、そんなものいつ切られてもしかたのないような強烈な引き回しだ。必死で竿を支えていたら、そいつは突然水面でジャンプ。えっ、アマゴのジャンプ。ちがった。ブラックバスだった。ここですべてを理解。あの大きな黒い群はブラックバスだったのだ。最初に餌に食いついたウグイに今度はブラックバスが食いついた。渓流仕掛けでブラックバスを釣ろうなんてとんでもない。へたすりゃ、竿まで折られる。でも、別の闘争心がむらむらと沸いてきた。よおし、この竿で釣ってやる。数分が数十分にも感じられる時間が過ぎて、45センチのブラックバスは僕の手の中にあった。
そういえば、池原ダムはブラバス釣りのメッカ。しかし、こんな渓流域にまで遡上しているとは思いもかけないことだったから、おばけアマゴがウグイを食ったと思いこんだのである。それからの僕は、少し上流でアマゴやアブラハヤなどの渓流魚を釣り、それを持ってきては餌にしてブラバス釣りに興じたのだった。もちろん、愛用の渓流竿で。何度も糸を切られながらも数匹のブラバスをつり上げた。もちろん、その日は、アマゴ釣りを放棄してしまったのだったが。渓流の女王と称されるアマゴで、川のギャングと称されるバスを釣る。この不思議なおもしろさ。魚には人間さまの付けた敬称など何の意味もないということをこの出来事は物語っていた。その後、バカにしていたブラバス釣りにしばらく通うことになってしまったことは言うまでもない。もちろん、渓流竿をルアー竿に替えてね。